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科学者が語る、サイエンスの現在

第4回 広瀬 全孝教授

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広瀬全孝氏の顔写真Science is Artという言葉がある。
科学であれ、芸術であれ、創造の根底にあるものはあまり違いはないのです。

1.【Artistic】ただ単純に論理的ではなく

これからは論理的ではない部分アーティスティックな部分の力量を問われると思う。


広瀬 : 科学者になろうとか、科学の領域に興味を持ったのははっきりと覚えている。小学校6年生の時。ただ、その時にどれぐらい深い根拠で思考なり意思を持つに至ったかと言うのは鮮明ではない。漠然とした意識だったですね。本当に自己の意識で研究者になろうと決意できたのは会社に入ってから。僕は大学4年生終って企業に入りましたんで。企業で1年間やって、研究所でしたが。当時、基礎研究に非常に興味を持っていた。実際には経済状況もあり、あまり基礎研究に専念できないような環境に変わりつつあったんですね。昭和38年から39年。ちょうど、鍋底景気に入った頃で、高度成長が一時的に停滞している頃です。それで僕は研究者として自由を持ってやりたい、好き勝手やりたいのではなく、自分の意思で決めたことを責任持ってやりたいということを、かなり強く思うようになった。それで大学院の試験を受けて入り直したんですよ。

だから自覚的に研究というものを自分の問題として捉えたのはその時でした。それ以前に、ではなぜ工学部にいったかと。電子工学を選んだのだけれど。既に僕らが高校を卒業する時は、ちょうど電子工学科が全国に出来始めた時期でエレクトロニクスという言葉も当時はまだポピュラーではなかったけれど、電子工学が日本の将来を支えるだろうという漠然とした認識があってね。それは知り尽くした上とか経験した上での電子工学ではなくて、多分に情緒的な決定だったと思いますね。

広瀬 : 憧れよりも、もう少し醒めていたと思いますね。日本の将来にとって重要な領域だという意識。実際会社に入った時は、現場に触れるわけです。それから技術が動いていることがわかる。自分の役回りもかなりはっきりと見える。ただ、会社としてやむをえない不自由な部分が常にあったわけです。それでやはり大学で研究をやろうと。その時点ではかなり明確に自分の意識が出来上がっていた。会社に入って非常によかったのは時間を自己管理して、ある時間、時期までに仕事を仕上げていくという方法を学んだ。実際経験したわけね。それはずっと大学にいると、なかなかラジカルにはわからないですよ。特に研究所と工場で共同でやった仕事があって、週単位で結果を出していかないといけない仕事も一部、開発のお手伝いでやったことがあります。時間の管理と、自分自身の能力を総動員する経験をさせて貰ったことは、その後の自分の研究をやる上では非常に大きな経験だったと思います。

広瀬 : 半導体の集積回路の設計も、デザインて言うのだけど、設計って言うのはハードウェアからもう一段上流側にあって、やらなくてはならない仕事がたくさんある。どちらかと言うと、これまで日本ではアーキテクチャーとかデザイン分野がやや立ち遅れていると言われています。設計原理のことをコンピューター・アーキテクチャーって言うでしょ。要するに建築のアーキテクチャーと似ていて、全体のシステムの構想力を問われるというかね。対象はコンピューターと建物という違いはあるけれど。多分に芸術的な感覚というか、またはそれに類する「積み上げる」だけではまとめられない飛躍、思考の仕方の飛躍があるというか。新しい見方でシステムをつくるとか。

日本で半導体は産業としてこれだけ大きくなっているけれど、計算機の設計原理を考える人たちも、十分ではない。人材の層の厚さにしてもやや不満がある。ご承知のように、インテルのようにコンピューター用のチップを設計し、つくる会社は非常に設計部隊が強い。だからリーダーシップをとっているという現状がある。それにはいろんな歴史的理由があるのだけど、必ずしも歴史的な技術の流れだけではなくて。日本ではデザイン、あるいはアーキテクチャーが重視されてこなかったと言うと、語弊があるのだけど、多少、後回しになってしまったと言うか。ハードウェアをちゃんとつくるという方向へエネルギーを集中したということもある。

それはある意味で日本の製造業のイメージが、やはりハードウェアはちゃんとつくると。その技術においては世界に冠たるものをいまも持っていると思うのです。けれど技術を組み合わせて新しいシステムをつくるとか、応用展開するとか、新しい社会を構想するとか、そういうところは、要するにデザイン力なんですよね。広い意味のデザイン。社会に対する、未来に対するグランド・デザイン、そういうものを構想できるかどうか。そこがいま日本にとって大きな課題になっていると思うね。これからはますますそういう側面が強くなる。フィロソフィーもいるだろうし、感性って言うか、論理的ではない部分、アーティスティックな部分の力量を問われると思いますね。そういうもので初めてインダストリアル・プロダクトが社会の中に正当に位置づけられる。

家電の時代とは明らかに変わってきている。家電というのは目的が明確ですね。使い方も含めて比較的、決まった方法だから。つくれば、必要な分だけ出る。いま、そういうプロダクトでは、十分ではないですね。コンピューターにしてもつくれば売れるのではなく、どれだけのソフトがのるか、いいシステムに設計されているかを問われている。なおかつ、ネットワークだとか、分散型に処理をするとかね、いろんな場面を想定して柔軟性のあるシステムを適切なコストでまとめないといけないですよね。

2.【Silicon】シリコンの中にある夢

生物は一定の大きさの細胞を次々と作り出す。同じように寸法の揃った量子ドットを自己組織的に作ることはできないか。


広瀬 : 現在、全世界的に進みつつある情報通信革命は産業革命以来、人類が直面している大転換期と見ることができます。工業化社会から情報化社会へと産業構造が大きく変わる中で生まれた新しい時代の波と考えられますね。18世紀に始まった産業革命の背景には、14~16世紀に渡るルネッサンスの時代に近代社会の基礎が造られたという事情があります。たとえば、印刷技術や記述言語の成立という情報伝達の基盤がこの時代にできた。そして科学者が専門家として社会的に活躍する場が拡大した。いま、われわれは印刷技術の登場に対比できる情報ネットワークを持つようになっています。コンピューターを扱うためのソフトウェア言語も手中にしていますね。

半導体はコンピューター、通信システムの基幹ハードウェアとしての重い役割を担っているし、特に半導体集積回路は、これからも電子情報産業の発展の要となるでしょう。われわれが目指す情報化社会は、人間の知の新しい領域を創造するものであって欲しい。個人を組織から解放する方向、創造と自由へと進むだろうと思います。ただ、科学と技術が急速に発展する時代の中にあって、人類はこれに適切に対処するための知恵を求められています。そのために、情報ネットワークやデータベースあるいは人類が歴史的に蓄積してきた知的資産をどう活用するのかが問われていると思う。科学者や技術者は自分の専門領域を深く掘り下げるだけではすまなくなっていると思います。歴史の大きな流れを掴むことと、その中で自分の役割を認識するという自分自身への問いかけが必要になってくる。

広瀬 : わたしは半導体超薄膜の研究や半導体表面、界面の研究に携わっています。またこれらの研究を通して、半導体集積回路の研究に関わっています。半導体集積回路メモリやマイクロ・プロセッサー(超小型演算装置)は、コンピューター技術と直結していますから、その進歩発展は大いに刺戟的ですね。集積化技術は膨大な技術の体系から成り立っていますから、その発展は既存技術の枠組を大きくは逸脱することなく、技術ロードマップに沿った開発が行われます。もちろん技術開発の各段階で、個別的なイノベーションはあるわけです。しかし5年~10年先の集積回路がどうなるか。どんな技術が必要になるかを考えてみると、さまざまな技術障壁が立ち現われます。集積回路に搭載される超微細なトランジスタの構造を考えると、シリコン原子の寸法の何10倍というような超薄膜が使われたり、原子数100個分程度の寸法を持つ構造を制御して作りつけるという仕事が必要になります。このような技術の実現には、極微な構造における物理的、電子的性質の解明、原子・分子寸法の分解能を持つ表面・界面の構造解析、極微構造を創り出す新しい手法の開拓など挑戦的な課題が山積みしていますね。わたしたちは現在、このような中長期的にみて解決を迫られているテーマに取り組んでいます。

ひとつの例を申し上げます。MOSトランジスタと呼ばれる素子の内部にシリコン酸化膜を絶縁膜として使っています。この膜の厚さは、現在は完全な絶縁性物質として扱えるだけの厚みがありますが、近い将来5ナノメータ(1ナノメータは10億分の1メータ)より薄くなります。シリコンと酸素の分子結合が20層位しかない超薄膜を使います。このような超薄膜に電圧が加わりますから、トンネル電流が流れるようになるのです。これは量子力学的効果によって引き起こされる現象です。この現象の正確な理解に基づいて、酸化膜がどれ位薄くなってもトランジスタとして許容できるかということは近未来に答えが必要です。このような問題に対して答えようとすると、薄い酸化膜の電子的物質、シリコンと酸化膜の境界面の原子的構造、電子のトンネル効果を支配するポテンシャル障壁(電子の運動を妨げる壁の高さ)などについて正確な知識が必要になります。最近になって、これらの物理的性質をわたしたちはすべて知ることができるようになりました。その結果、トンネル電流の値をかなり正確に予想できるようになったのです。

ところで半導体技術の発展を考える時にはもうひとつの視点が必要です。それは技術ロードマップからは予想できない、新しいデバイス(素子)と情報処理システムの探索です。このような研究は既存の技術体系とは必ずしも整合しないという問題もあって、成功する確率が高いとは言えませんが、大学にいる研究者としてぜひ挑戦したいことです。

わたしはいま、広島大学に付置された全学共同利用教育研究施設、ナノデバイス・システム研究センターのスタッフの人たち、工学部電気系の教官の方々にも御協力をいただいて、シリコン量子デバイスとそれを使った情報処理システムの研究に取り組んでいます。半径3ナノメータ(Si原子13個並べた位の寸法)程度の半球状シリコン(量子ドットという)を、1ナノメータ程度のシリコン酸化膜上に多数配列するところから研究を始めました。1個の量子ドットを酸化膜で覆うと共鳴トンネル現象が室温できれいに観測できることが確認できました。仕事は緒についたばかりですが、シリコン量子コンピューターの実現に向けて知恵を絞りたいと考えています。シリコン量子ドットを現在の集積回路のトランジスタの中に組み込むことも考えています。そうすることによって、トランジスタに新しい機能を与えられるからです。これらの研究が成功するには、同じ大きさの量子ドットをシリコン酸化膜上の必要な場所に必要な数だけ作りつけることが必要になります。物質の微細加工には寸法のゆらぎ(バラツキ)が宿命的につきまといます。これを避けるために、生物が一定の大きさの細胞を次々と作り出すように、自己組織的に寸法の揃った量子ドットを作ることはできないかということが、わたしたちがいまもっとも苦心しているところです。

3.【Computer TV 1】すべてを支配する動き

コンピューター・テレビというのは、コンピューターを支配する者がすべてを支配するという動きの一環とも受けとれる。


広瀬 : ちょっと話がズレてしまうけれど、最近、割と面白い議論が新聞であった。『コンピューターがテレビに成るか、それともテレビはコンピューターとは別の技術として今後も発展するのか』。現存する巨大な情報エレクトロニクス産業の会社の一部がパソコンを進化させてテレビの機能まで与えようというアプローチで、いまアメリカのメディアからかなり反撃を受けている。テレビっていうのは番組を供給する大きな情報媒体というか、あるいはそれをつくる放送局なども含めると、たくさんのメディアの人たちが支えているわけだね、体制がある。いままではテレビって機器を通すことで、そこには文化とか情報の流れが出来上がっていた。多くの場合、テレビを見る人は何か特別な自分のアイディアがあり、何かを検索して見るというよりは、提供されている番組をジャンジャン押して面白いのを見てね、せいぜい録画するという形です。ケーブルテレビだって本質的には、リストから番組を拾うという意味では同じですよね。

僕が面白いと思ったのはメディアに関わって、情報をつくって流している人たちは、すごくある種の自尊心というか、社会を見ていろんな人がいる中での自分の判断とか、論理性とか、芸術性とかモラルとかね。そういうものをかみ砕いて提供していると思うんですね。映画だってひとつの思想なり、理念があってつくられていると思う。そういうものに対して、コンピューター側からの挑戦は(従来の)秩序をある意味で否定するような動きに見えたんでしょうね。かなり反撃を受けている。面白いというか、どっちがどうなるかは別として、僕が思うには、マスメディアっていうのは本質的に歴史がつくってきた。アメリカではデモクラシーの歴史の中で培われた文化があるわけですね。そういうものをやや無視したというか、むしろコンピューターを支配する者がすべてを支配するという動きの一環とも受けとれる。パソコンを抑えたら次はテレビのようないわゆる情報メディアを抑えたいということですね。それもコンピューター側から抑えようと。

お金があれば、映画会社も、放送局も買える。そういうことはある意味で怖いことですね。情報化の流れの中で極めて強い企業が何でも買って、囲いこんでいって。まぁ一種の情報サービスはできるかも知れないけれど、いままでのある意味で自然につくられてきた社会の秩序なり、システムに対して、必ずしも文化的なアプローチになっているとは思えない。人間というものがあって、テレビの世界では情報の送り手と受け手という関係があって。だけど、コンピューターというのは本質的には自分が働きかけないと動かないシステムだから、テレビとは違うわけです。それをテレビ化すれば、自分たちがマーケットを支配できるように、メディアの人たちには映ったということが反撃の理由かなと思うけれど。

僕なんかは漠然とコンピューターがテレビに成る。そう悪いことではないなと思っていた。テレビがコンピューターになるという別の側面もあるわけですから。コンピューターTVは技術としてはあるけれど、それを支えてる一番大きな情報提供の主体というのが抜け落ちています。社会というのはやっぱり全体を見て動かないといけなくて。技術者がいくらいいコンピューターTVができたと言っても、テレビの場合は関係が固定されているからね。あまり間違いを犯すことはないのだけど、コンピューター側からのアプローチでは、間違えるかどうかは別にして、社会の成り立ちとか、情報伝達の形式がそう単純にひっくり返されることが、本当に一般大衆にとって善いことなのかどうか。そこにアメリカのメディアの人たちは敏感に反応したんじゃないかな。

4.【Computer TV 2】メディアの世界、コンピューターの世界

いままでコンピューターはメディアの世界から離れたところで発展してきた。それがテレビの方へ接近しているという事実がある。


広瀬 : それは可能性としてはあるだろうけれど、難しい問いかけですね。つまりテレビが進化すること、デジタルTV、さらに情報をテレビ自身が送れるようなね。双方向の媒体に進化していくことは、いまテレビ番組を提供しているメディア側との関係はある程度、相互理解を前提として進んでいくと思う。ある方式で、あるサービスができるってわかった時に、メディア・サービス側がどう対応するのかと言うのはコミュニケーションのルートがあるわけね。あるいはたぶん、いろんな意味の関係性っていうのは既にビジネスの場である程度存在しているわけです。ところが、コンピューター側はいままではあくまで受け身で情報を受けるシステムではなかったと言うべきでしょうね。インターネットだって自分が欲しい情報を取りにいくのであって、あれでテレビを見るというシステムには基本的にはなっていない。

だからいわば勘違い、というのがメディア側から見れば明らかにあるわけです。表現はおかしいけれど、コンピューターで言えば、ソフトウェアもパッケージも全然ないコンピューターは使えない。意味がない。同じように番組サービスを受けられないテレビっていうのはハードウェアとしてあってもしょうがない。あるいはテレビ局のようなものが介在しているのだけど、周辺には番組を制作する組織がたくさん関わっていますね。それで受像器がある。それで全体の流れ、コミュニティーができている。

いままでコンピューターはそういうメディアの世界と離れたところで発展してきた。基本的には人が働きかけて必要な情報を取り出す装置だった。それが機能的にはテレビの方へ接近しているという事実がある。(現在は)番組を提供しているのは情報エレクトロニクス産業の一部の会社ではなくて、やっぱり番組制作会社であり、新聞、放送を含むメディアの人たちがやっている。その関係をどうするかという一種のネゴシエーションと言うか、あるいはやりとり。あるいは相互関係が少しずつつくられていくのではなくて、いきなりコンピューターTVになるぞという発言があったことがね、ある意味で、番組提供側から見ると、技術者の奢りのように見えたかも知れないね。

広瀬 : そんな風に見えなくもない。基本的にはアメリカの場合、お金で会社を買えるわけでしょ。そこが日本とちょっと違う。日本だって外国から買われそうになったりね。逆に日本が買ったなんて話はあるわけだから。そこがやはりそれでいいのかって言うね。非常にモノカルチャー化された組織で人間の社会をコントロールされるようなこともね

5.【Cycle time of Evolution】科学に与えられた時間

基礎的発見から応用までの距離が縮まった。いまは科学が技術として成熟するまで観察したり、いろんな人が発言する時間が割と短い。


広瀬 : 見方によっては怖いでしょう。ある意味で誰がコントロールしているかわからないけれど、情報全体がネットワークで管理されてある方向へ誘導されるみたいなね。コンピューター社会、ネットワーク社会が持つ側面、それをネガティヴに見て、コンピューターやネットワーク技術をまるっきり評価しないっていうのも間違いなんだけれど。一方で、パワフルな情報機器、情報ネットワークは危険性を持ち得るということですよね。犯罪のことは最近よく言われるけれど、それはある意味で定義しやすいというか、対策も易しいとは思わないけれど、いろいろと考えられる。 ただ思想に関わることや、人間の社会の構成、営み、在り方が知らない内に健全さを失うような恐れというのは多少考えられる。

そういう意味で半導体とかエレクトロニクスとか、コンピューターとか、通信とかのいろいろな技術と、社会の営み、あるいは社会学的、経済学的に見た、人間社会、国家間の関係を含めた成り立ちというものは、全体としてかなり広い視野で技術を見ていないといけない。危険という表現はあたらないけれど、(広い視野の)視点を求められる時代になったということでしょうね。それ程に、ハードウェア、それを支えるソフトウェアの技術は発展した。インパクトが大きくなっていると思います。人間の自由とか、デモクラシーとか、それから倫理とかね、あるいは芸術や科学の様に人間の創造性の源に関わる部分を大事にできるような社会システムにちゃんと組み上げていくというか。そういうビジョンがいると思うんですよ。

広瀬 : 広い意味の技術、システムを提供する技術集団のね、ある種の思い上がりかも知れないし。もう少し、柔らかく言えば、サービス過剰と言うか、おせっかい。それはまあ、技術者たちが陥りがちなウイーク・ポイントだと思うんですよ。今日の主題であるサイエンスの方で考えてみると、同じ問題があるような気がする。サイエンス自身の持つ普遍的な価値とか、面白さ、人間の知にとって、食べるものとは違った意味の人間存在に対する栄養分としての科学は、肯定的に捉えやすいし、確かに重要なんだけれど。一方で科学者のいろいろな研究によって、新しい技術が結果的に生みだされてゆく。

いま、科学と技術というのは非常に接近しているわけで、新しい科学的な発見が、新しい生産物、産業プロダクトに結びついてゆく例はたくさんあるわけですよ。そこから先はまさに社会との関係ということが問題になってきている。それではサイエンティストはプロダクトから向こうは見なくていいのか。それは古くから言われているテーマだけれど。歴史的な進化の速度から考えると、いますごく速い。基礎的発見から応用までの距離が縮まってきて、それだけに何十年もかけて科学が技術として成熟して、産業を覆って、発展していく(過程)を観察する時間が、いろんな人が発言する時間が、割と短い。それでいて社会に大きいインパクトをもたらす。典型的な例が、生命工学とか、遺伝子工学。

広瀬 : 起こっていますね。情報科学のコンピューター・サイエンスの分野においても、一部の巨大な企業が組めば相当なことができる。それを支えている膨大な数の技術者とサイエンティストがいるわけです。サイエンティストはコンピューターの新しい構造とか、生産性を上げる新しいソフトウェアのプログラミングの手法とか、主観的にはサイエンスの世界として完結しているのだけど。そういういろいろな学術情報が最終的に製品としてコンピューターの中に組み込まれてゆく。メディアとの関係である種の摩擦が始まったということは、それはハードウェアの提案を通して起こったわけだけれど。結果として見るとコンピューター・サイエンティストは、やはりそこまで(プロダクトの先まで)見ることができればね。そこまで視野を広げることが、いまの科学者にとっては望ましい形態かなと思う。科学者の社会性というのは原爆の時も言われたし。技術の二面性、あるいは科学の持つ二面性とかは歴史的には広く認識されている。一般論としてはみんなわかっているけれど、現実にいまのエレクトロニクスの最前線に関わる研究者、科学者の世界というのは、人間社会に対する自分自身のビジョンというか、そういうものを持つことが求められている気がします。

6.【Science, Society and I】歴史の流れの中に立つ

その渦中にある時はなかなか客観視できない。やはり歴史の流れの中、自分と社会との関係で、対局化することがもっとも重要なことです。


広瀬 : 象徴としての核エネルギーの問題はあるのだけれど、僕が気をつけているのは、自分自身はたいした力は持っていないけれど、大勢の研究者のひとりとして関わっている領域の持つ社会的な意味を、どれぐらい深く捉えられるかです。それは研究者、技術者に課せられた重要な課題と言うより、ひとつの命題だと思うんですよ。サイエンスをサイエンスとして深く極めることは誰だって望んでいるし。そのための努力をすることについては特に難しい議論がいるとは思わないけれど、サイエンスの社会的な意味とか、自分自身だけではない大きな研究者集団、技術者集団とか、産業とかありますよね。そういう社会性を絶えず見て発言する。あるいは批判もあるだろうし、いろんな意味の評価を自分の頭や尺度でやっていくことが、社会と科学のあるべき関係なんです。

それが保たれない時は人間にとってかなり危険、あるいは社会にとって危険な状態だと見るべきだと思うのです。それはサイエンスに限らず、政治的な思想とか、時代のいろんな新しい主張、考え方、あるいは芸術の世界でもいろんなISMがありますよね。その渦中にある時っていうのはなかなか客観視できない。やはり歴史の流れの中、自分と社会との関係で、対局化するというか、そういう作業と言うのは、全人格的な人間にとってはね、もっとも重要なことで、そのどこかを飛ばしてしまうことは、長い目で見た場合には、科学なら科学の営みそのものにプラスにならないのではないか。敢えてマイナスになるとは言わないけれどね。

抽象的だけれど、近代化のプロセスの中で、産業革命以降は、人間がとにかく専門化していく過程だったわけですよね。技術者は基本的には技術プロパーのところで貢献し、成果物が現われると敬意も表されたし。それ自身、ある意味で善であったわけだけれど。専門化が進み過ぎることで、結局社会のそれぞれの領域にいる人たちの思考がある意味で分断されている状況というか。それが近代社会のひとつの弱点だと思うのです。それを平均的な一般社会の人たちが、専門家と共にもう少し視野の範囲を広げることで見えてくる新しい社会の問題、産業、技術の問題とかは、整理され得るというか。あるいは課題がより速い時期に浮かび上がる。

環境問題について言えば、60年代後半は技術が環境に汚染という形でネガティブにインパクトをもたらすことを批判された時代だった。いまは資源の浪費や地球の温暖化など、従来の排気ガスとか、汚水とかいう形の公害だけではなく、物質循環系が高速度で破壊されつつある。一方向的にどんどん物質が加工されて、廃棄物がたまる。もちろん、リサイクルについては議論されているけれど、相当緊急性の高い事項ですよね。東南アジア諸国が、中国を含めてものすごい勢いで追いかけているでしょう。この流れをどこかで人為的に止めるのは難しいとしても、ではその行く末を先進国はソリューションとして持っているかと言うと、もちろんいろんなことは行われていますけれど、コストの壁とか、市民の協力のレベルが高くないとか、あるいは政治的なリーダー・シップの欠如とか、自治体にビジョンがないとか。事態は加速度的に悪くなっていると思うのです。これをどうするか。それはやはりテクノロジー全体の問題ですよね。

7.【Impacts】人間社会へのインパクト

科学の人間社会に対するインパクトが強くなった分だけ、日常的な責任が存在している。


広瀬 : 「たとえば、膨大な数の使われなくなったコンピューターがこれから破棄される。その再資源化とか、リサイクルというのはまだちょっと議論としても整理される段階には至っていない」

広瀬 : (笑)もちろん、全世界的にはISOの規格とかね、環境負荷軽減のための企業努力はいろいろな意味で動機づけられてはきているけれど、インテルにしても、マイクロソフトにしても、もちろんIBMもそうだけれど、産業界の総体として、どういう対応をとっていくか。科学者、技術者の社会性といった意味が問われる。歴史的に言えば、科学の人間社会に対するインパクトが強くなった分だけ、日常的な責任が存在している。かつての核兵器のような形、元々核エネルギーの解放ということから始まった非常に特定の技術によって、強大なインパクトが社会に与えられたケースに比べると、認識が難しいとは言わないけれど、認識のレベルがどうしても浅くなりがちな問題が山積している。その課題のインテグレーションした(積み上げた)ものは実は地球の存在に対して、それ(地球の存在)を危うくするような部分があるんだと思いますよ。そこをやはり人間社会の有り様として、どのように見ていくか。大きなテーマではないかと思いますね。

広瀬 : (豚の内臓移植についての新聞記事は)僕も記憶にありますね。いわゆる最前線にいる科学者にとってね、専門領域の興味ある発見に深入りしていくというのは、ある意味で不条理な部分があって、常にその時代のモラルだけで、是非を判断するというのは、ちょっと難しい問題があると思いますね。では、そういうことを全部禁止と、やっちゃいかんと言うと、みんなやめるか。たぶんそうはならないから。むしろ事実が事実として公開されて、それが多くの人の議論を呼んで、その時代の社会の中のひとつのコンセンサス、当然生命に対する倫理の問題とか、人間とは、生きるとは、あるいは死の問題、そういうものに対する哲学をみんなが問われる。その発明が自分の臓器移植ということに繋がり得るとすれば、すべての人にとっての問題だから。やはり重要なことはその発見を共有する、それからその時代において広く議論することが必要だと思うのです。それをやらないで閉じ込めると、マニアックな人がローカルに何かをやる。残念ながら、人間って好奇心ゆえに何かを徹底的にわかろうとする行為に及ぶことがあるわけです。それを法だけで規制できるかという問題があると思う。

明らかに倫理的に受け入れられないことは、いま多くのことが法で禁じられている。でもその臓器移植の問題について言えば、非常に多元的ですよね。それを特定の宗教とか、特定のモラルによって、割り切っていいのか。あるいは自分が患者である場合と、関係ない場合は全然違うし。やっぱり多くの議論によってひとつの解を求めていくというか。解はひとつではない可能性だってあるし。最後は当時者、ドクターかサイエンティストなどの人達の判断に委ねざるをえない部分もあるかも知れません。

8.【Moral】その時代のモラル

その時代のモラルで裁くことが完全に正しいのか。裁くという行為まで常に可能なのかというのはわからない。


広瀬 : 技術的に可能であることは、あるいは科学的に論理的に可能なことは、報道される前、社会に明るみにでる前にやってしまう人間が絶対にいないとは言えないし。その(やってしまった)人を異常だと言うだけでは済まない大きな問題です。非合法なことによって何か利益を生めば、残念ながらやる人はいるわけです。だから綺麗事ではやっぱり済まなくてね。僕はさっきの臓器移植の問題で思い出したことがあるのだけれど、たとえば、レオナルド・ダ・ビンチとかね、人体解剖やりましたよね。ミケランジェロも。ダ・ビンチの解剖図っていうのは、いまもパドヴ大学なんかに残っている。公刊もされている。写真のなかった時代の超精密な解剖図。それは結局、絵を描く、あるいは彫刻をするアーティストにとって、人物の皮膚の内側の筋肉、血管、骨、構造、それらの動き。そういうものを完全に理解し、一瞬の中に固定したいという思いから生まれた行為だと思うけれど、当時はすごく非難された。死体を切り刻んだように見えた。ミケランジェロもやはり随分、解剖をやったけれど、ダ・ビンチは彼をやや批判しているところがあるのです。自分より彼の方が即物的過ぎると言いたかったのだと思うけれど。解剖学的な知見を、あまり自分の芸術に利用してはいかんと。悪用とは言わないけれど、批判がましいことは言っているのです。

その時代の行為として見た場合、ローマ教会的モラル、あるいは当時のキリスト教的モラルから言えば、やはり天を恐れぬ行為に映ったのだろうと思います。その時にその時代のモラルで裁くことが完全に正しかったのかどうか。いまにして思えば、たぶんかなりの人が当時のモラルに対して否定的ですよね。だから生命倫理の問題にしても、まったく(現状の)結果が変わるとは思わないけれど、人の知能の及ぶ範囲というのはね、いつの時代でも限られた知識と常識だから。それで生きているわけだから。科学的発見の結果としての技術の価値を評価する時というのは、その時代の倫理観だけでストレートに割り切れるのか。結構難しい問題だと言えると思うね。僕はオープンな議論という表現を使ったけれど、裁くという行為まで常に可能かというのはわからないね。

だけどもちろん、その時代の倫理観によって、制御されるものは一般的には多いと思います。特にそれが生命とか人体の物理的な状態に及ぶ時は考えやすいけれど、思想信条に関わる事とかね、そういう部分になると、直線的な関係性が不明な分だけ、特定の思考の形態とか、あるいは思想がその時代の価値観で否定されてしまうことは歴史的にはあったわけですね。芸術の世界でもたくさんあったわけです。過去の歴史に照らして言うならば、その時代の価値観だけで時代を割り切っていくことは、それでハッピーという話ではない。ずっと抱えていかないといけない問題が増え続けているのだと思う。

サイエンスに対して広がりのある見方というのが重要だし、サイエンスそのものの展開についても歴史的には学説(権威)に対する批判や学説自身の矛盾があって、そのことによって新しい発見に至るプロセスが繰り返されているわけです。それはある時代の常識が次の時代に否定されたり、乗り越えられたり。実際サイエンスの歴史ではそういうことが起こってきた。同じようにサイエンスの発展が技術の世界でも次々と新しいものを生み出すという形で、前の時代の生産物が歴史的な遺物と化す。進化したと言えるかどうかはわからないけれど、変化してきている。そういうダイナミックな関係はあらゆる場面で存在するわけだから、それを的確に捉えるためには見ている領域がある程度広がっていくことが第一だと思います。

9.【System Intelligence】知のレベルを考える

コンピューターが人間のインテリジェンスのレベルに近づいてくると、システムのデザインという問題が重要になってくる。


広瀬 : 最初に、エレクトロニクスにおけるデザインのことを申し上げたのですが、産業技術として見ると、たとえば半導体のメモリーとか、集積回路ですね。ワンチップのマイクロ・コンピューターとか、膝の上に乗る程のパソコンのようなハードウェアが、かつては大変大きな体積と重さを持っていた。いまはその心臓部が手のひらに乗るくらい小さくなって電力も食わなくなった。信頼性も劇的に上がって、性能も上がったことで、技術がものすごく進歩した事実があるわけですね。それで家電製品とか自動車を含めてあらゆる機器が電子化された。これは間違いなくハードウェア主導の技術進歩であり、産業の創造だったわけですね。技術進歩はいまも続いているのだけれど、いま非常に重視されるようになってきたのは知能を持ち始めた半導体チップを、どのようにデザインするか。つまりそれは単純な機能から複雑化、知能化したと。たとえば、ロボットなら物をただ右から左へ移すだけの行為から、物を受け取って処理をして、別のロボットに渡して、また受け取る。非常に複雑なコミュニケーションまで可能になれば、同じ自動機械と言っても知のレベルが違うわけですよね。コンピューター用のメモリーとか、プロセッサーと呼ばれる半導体のチップも情報処理の機能が、人間の処理能力、情報処理機能に対して高いレベルで関わるようになってきた。

コンピューターはひとつの典型だと思いますが、そうなってくると、システムをどのように構成するか。あるいはどのようなアプリケーションを想定してシステムをつくるか。どんどん人間の情報処理行為との関係が問われるようになるわけです。かつては自動化機械、サポート・ツールだったけれど人間のインテリジェンスのレベルに近づいてくると、システムのデザインという問題が重くなる。別の言い方をすれば、付加価値が非常に大きくなる。同じ電子システムのハードウェアであっても、中の配線の仕方とか、機能ブロックの作り方、デザインする設計力の違いが製品の価値を決める要素として大きくなってきた。デザイン、設計力という情報構造の重みが相対的には大きくなる。明らかに技術発展の流れの中では、これまで日本の社会が見てきた産業のモデルである優秀な技術、的確な組み立て能力、あるいは品質管理によって高信頼の物をつくるだけでは、「仏つくって魂入れず」の部分が拡大している。

集積回路の設計というのは、多くの場合、コンピューター上でやりますから、ソフトウェアに近い領域の技術なんですね。デザインというのは、回路のデザインひとつとっても閃きとか、その人のオリジナルな能力がすごく重要なわけで、システムの知的レベルが上がるにつれて、より人間の情報構造との接点が多くなる。システム・デザインのレベルの高さ、アーティスティックな閃きとか、そういうものがハードウェア・デザインに反映されるような場面が重くなってきている。そうすると電子産業のパラダイムというのは明らかに変わったと言わざるをえない状況になってきているわけです。

コンピューターというのはある種の部品を買い整えれば、誰でもと言うと語弊があるけれど、いろいろなところで組み立ては可能だし、目的を達するだけの機能を与えることは可能です。重要なのはコンピューターと言えばマイクロ・プロセッサーという演算処理を司る要の部分をどうつくるか。そこに技術の核がある。それから全体としてマザー・ボードにまとめるところにも技術の核がある。さらにOSを含めたシステム・ソフトウェア。こういう部分が急拡大したことによって、産業の構造が従来の第二次産業的な形態から、情報化を軸にした新しい産業形態へ生まれ変わった。ポスト工業化社会です。

10.【Science is Art】レオナルド・ダ・ビンチの衝撃

世界史の教科書に『レオナルド・ダ・ビンチは医学者であり、芸術家である』と書いてあった。


広瀬 : 主観的に言わせてもらえば、新しい着想とは、飛躍ということですよね。それから創造することは、研究とか芸術とか、あまりジャンル分けして区別する必要はないのではないかという気がしています。たとえば、非常に立派なサイエンティストで一流の音楽家というのも現実にはあるし。また、絵がすごくうまい一流の研究者も知っています。つまり、絵も研究もプロフェッショナル。それは単に、これは本業、これは趣味というのではなくてね。両立しているケース。芸術的なセンスのいい人が科学の世界も両立させていることもあると思うのです。人によっては意識的に関心を持たなかったりすることもあると思うけれど、創造の根底にあるものは実はあまり違わないと思うのですよ。

たとえば、『Science is Art』という言葉がね、外国人には受け入れられやすい。彼等はそう考えているみたいです。そのアートは広い意味であって、数学の理論がすごく美しいという数学者がいます。あるいは、単純で基礎的な原理が発見された時に、その理論の体系や方程式がすごく綺麗だと。そういう表現はかなり本質を突いているのだと思う。芸術というのは、ある種の才能ある人間がしかも大変な努力によって、体力の限界までね。どれだけ制作のプロダクトが増えても満足しないような芸術家ってたくさんいますよね。その情熱、突き動かすエネルギーというのは、まさに芸術家にはよく知られているのだけれど、科学者も根底においては同じような情熱に突き動かされて新しい発見に挑むというか。

思考の発動の形態としては、最終形態は違うけれど、本質的なところは随分似ているのではないかと思いますね。科学者の中で明らかに才能に恵まれた人は、見事な仕事をしますし。才能だけで開花したわけではないけれど。(サイエンスの)才能ある人に対して敬意を表することに、多くの人が素直になれるということは、絵とか音楽とか小説とか、そういう世界でひとつの金字塔を打ち建てた人への敬意と同じ意味があると思います。

科学者の社会性は、本来、芸術家の社会性という言葉と同じ様な意味で、社会ともっと関わり得る存在だと思いますね。どちらもある意味で、すぐには理解されない部分があるわけです。しかし、人間にとっての芸術であり、人間にとってのサイエンスであるのなら、それぞれの社会性というのは、すごく深いところで人間存在に繋がっているわけだから。その意味で両者は、直交していると言うより、根源的に同じものから生まれてきた人間の営みのひとつの形態なのかなと。

広瀬 : 高校時代に、僕は非常に疑問を持ったことがあってね、世界史の教科書でダ・ビンチのところを見ると医学者であり、芸術家であり、文学者であると書いてあるわけね。そういう話が特にイタリアのルネッサンスの時代とか、ようやく文化というものが社会に根付き始めて、専門家が生まれ始めた時には珍しくなかった。僕は、医学者であり芸術家である人のことを「なんだ、この人は?」と思って理解できなかったわけ(笑)。何が起こっているのかと。これらの専門領域は分かれている筈でね、どういうことだと。ところが、ダ・ビンチはそれぞれの歴史に名が残る仕事をしているわけだから嘘ではないし。自分にとってはミステリアスで理解できなかった。実はその時代の必然性の中で生まれた結果で、ダ・ビンチが人間を解剖学的に理解し、あるいは医学的知識を深めたのは、芸術という彼の道を極める中で生まれてきた結果ですよね。ある意味で合理性がある。

11.【Micro Macro】専門化という危険

専門化が進むことは全体を見ないということと繋がりがちだから。技術者に限らず職業人が専門性ゆえに社会性を失ってゆく。


広瀬 : 恐らく、ミケランジェロの彫刻というのは立体幾何学というか、数理的なイマジネーションがしっかりしていないとできないですよね。あれだけの人間の姿を一個の石から一気に彫り上げて、しかも非常に短時間で仕上げてしまった。それは明確なモデルが頭の中に焼き付いていて、仕上がっている筈で、恐らくミケランジェロが数学やったとしたら相当なことができただろうと。同じことが建築でも言えて、コンピューターもないし、構造力学の計算の体系も完全にできていない時に、大きな建物がつくられた。それには過去の失敗の蓄積、構造力学的な基礎概念の構築というのはあったと思うけれど、一方で構造物全体に対する論理的な構想力、あるいはデザイン力があったと思うのです。

本来、人というのは、オールマイティーだったと言うとおかしいけれど、天才というのはそういうところがあって、必要な領域のもっとも深いレベルの理解や構想力、思考力によって新しいものをつくりだした。本来、人間というのは、全体性のある存在だったわけで、たまたま産業革命以降、特定領域に職業が分割されたことによって、そこから外の事には関わらないし、関わっても一歩引くという関係ができてしまったように思える。

広瀬 : 特にこのところ、20世紀も終りに至ってね、そういうこと(広義での細分化)が進んでますね。それが、若い研究者や技術者がこれから成長する上でかなり大きなハンディー・キャップになることを恐れますね。現実に企業でも、いま半導体メーカーに入った人が、半導体のチップをつくるとなると、膨大な技術の体系があるわけです。入社して配属されると、割と特定の領域に仕事が分割されてしまう。全部わかるというのはなかなか難しい。専門はギューッと深くなるのだけれど、自分が関わる技術の隣の技術もあまりよく見えない。その技術全体の生産工程なり、研究開発の流れの中の位置づけは必ずしも自分には見えていない。ただ自分ひとりで仕事の内容は設定していないので、いろんな組織と体制の中で仕事するからピントはずれにはなりにくい。一方で全体構想との関係で新しいアイディアを出すとか、またAという技術体系があって、AよりはBに取り替えれば、Cの技術もBで間に合うのではないかとか。そういうことが非常に難しい。受け身のスペシャリストにならざるをえなくて、実は若い技術者、研究者の成長という観点から言うと、厳しい問題だと。いま、マネージメント・レベルの人たちはしきりに危惧していることですね。

広瀬 : 要するに専門化が進むということは全体を見ないということと繋がりがちだから。技術者に限らず職業人が専門性ゆえに社会性を失ってゆくというね、そこに繋がっていくような社会にわれわれは住んでいて、是非の問題ではなく、その弱点をどうやって克服するかと言うことは、組織としては大きなテーマだし、ある専門家集団が絶えずそういう問題を捉え直して自分の問題として体系化しないといけないですよね。そういうこと(問題点の認識)が日常的、社会的に行われている国が、国も組織のひとつですけれど、歴史の中で生き残る上での対処の仕方のバランスが取れると思うのです。先鋭化した専門家集団がそれぞれに単眼的に突っ走るというのは警戒していかないといけないというか。

いくつかの会社が情報エレクトロニクス産業の中で超肥大化した時にね、何が起こるか。あるいは超肥大化し得るのかという命題もあるのだけれど。何が起こるかというのはいろいろと考えてみる価値があることですよね。これから何をしなくてはいけないかというビジネスの問題もあるし。あるいは日本の産業がどうあるべきかを考える時のテーマだと思うのですよ。

12.【Knocking on the Science's Door】社会現象の答えを求めて

ネガティブだから消すとか、無視するのではなくて、予想される社会現象のリアルな部分として答えを求める。そういうことだと思いますね。


広瀬 : (芸術作品は)人間の情感とか、感覚に直接訴える分だけね、人の行動に直結することが起こりやすいというか。論理的思考というか、思考を必ずしも経由しない、理解に至るまでには。いわゆる研究者としての倫理の問題というのは、一般論として言うと抽象的になってしまうので、自分の個人的な意識として、認識として申し上げます。いま、僕たちが立っている社会が、情報化あるいはネットワークという言葉で括られるような構造の中に置かれていて、それがたとえば、ビジネスの形態とか、社会の有り様とかに対して、潤滑体、あるいは媒介物としての高い貢献度、あるいは高い機能性を与えている。そういうことは、専門家として十分評価しているのだけれど。一方でこういう問題がありますね。コンピューター、ネットワーク技術の進歩というのは、人と人との会話、ダイレクトなコミュニケーションが、ひょっとすると、だんだん少なくなってもいい、あるいはそういうもの(ダイレクトなコミュニケーション)を断ち切るような生き方も強要されてしまう。構造的にね。それを断ち切ることを、悪と呼ぶかどうかは簡単ではないと思います。その人の選択が介在しているし。それによって現実に社会の営みが成立しているのであれば、それ自身の善悪は必ずしも言えない。
コンピューターは人をネットワークする。人と人の直接的な対話を、バーチャルにはするけれど、リアルにはすることが少なくなる社会。これは僕だけではなく、昨年(96年)の暮れに一緒に話をしていたアメリカのスタンフォード大学のボブ・ヘルムス教授もそういうことをポロッと言っていましたけれど。当然、起こり得る状況として予想しますね。その時に、もう一度考えてみたいのは人間の社会とは、人間の社会で活動することの意味はどのへんにあるのか。技術のアセスメントという単純化されたレベルではないけれど、もっと深い人間の存在というものから発想した時にね、やはり情報化社会、コンピューター・ネットワークの有り様が、そのような状況を踏まえて提案されなくてはいけないのではないか。それは僕だけの仕事とは思わないけれど。技術の流れに身を任せる、あるいは技術を加速させるだけでいいのか。問題に直接適合するかどうかはわからないけれど、テクノロジーのもたらす人間社会へのインパクトが結果として人間疎外という部分を非常にゆっくりとだけれど、膨大なスケールで拡大する。
たとえばバーチャルでしか会話できない人間をたくさんつくってしまう。あるいはバーチャルに会話することができるから直接対話することに不適応な人がそれで生きる道を得るということはあるかも知れないけれど。複雑な対人関係の中に身を置きたくないという人がいるから。選択枝が広がる部分と、無意識的にそういう状態に置かれてしまって、復帰したいのだけれどその術を失う。そういう人たちがもしたくさんできるようになれば、その状況を変えられる新しいシステムの構想がね、登場するべきなのかなと。これはIBMにとってもあまり聞きたくない話かも知れないけれど、マルチメディア、情報化社会がバラ色だという話がいいのかも知れないけれど。現実には人間社会における疎外の問題というのはね、近代化の過程で随分言われてきたわけですね。しかし、これまでは本質的には組織の中で人間が顔をつきあわせて、その中で起こってきた問題だと思うのだけれど。いまやそれが物理的な空間の中で現実に切り離されると。
在宅勤務というのも、ポジティブな面はたくさんあるのだけれど、一方で在宅勤務が100%という形態はだいぶ意味が違ってくると思うのです。その人は家庭というものを持っていて、ちいさなコミュニティーが確実に存在している場合は別として、シングルである場合を想定すると、もちろんその人が趣味の会とかね、友だちとコンサートへ一緒に行くとか、十分にそういう生き方は可能だから、在宅勤務だから孤立化した、孤独な危険な道だとは一概には言えないのだけれど。現実にはコンサートに行かなくても、いい音楽はマルチメディア機器で聴ける。それで満足できる人にはコンサートは必要ない。それから人と会って煩わしい人間関係を築くよりは、自分自身の意思の中、バーチャルな世界で結構だと。それはいまの若い人たちの中では若干傾向としてはあるわけですね。傷つけあいたくないとか、あんまり深く人に入り込みたくないとか、そういう傾向ありますよね。そんな傾向が社会の流れとして予測され得るとしたら、それに対応することを考える専門家もいるかも知れないけれど。やはり技術総体の問題として社会の中で的確に捉えないと、影の部分として将来気になる点のひとつですね。 敢えていえば、倫理のカテゴリーに入るかどうかは判らないけれど、技術と人間、背後にある科学と人間という関係は、基本的にはポジティブなんだと思うけれど、影の部分を、どのようにもう一度技術の中に捉え直すかというフイードバックが求められている。情報技術という観点での議論だけれど。先程の生命倫理の問題なんかもですね、専門家だけの問題ではなくて、いま、社会にいる人たちの共有するべき問題としてあると思うのですね。そのことが的確な場と機会をもって語られる。あるいは整理されて体系化されるというね、そういうループが情報化社会というのはできていかないといけないし。情報化というのは、テクノロジーあるいは生命、サイエンス、あらゆる場の倫理のサイクルが成立しやすい環境を提供していると思うのですよ。また、人類の歴史的な遺産を必要に応じて現代人のための知恵として捉え直すこともできるわけです。サービスもたくさん増えている。いま、置かれている状況をいろいろな人が客観視した時にそれに対する対応を、たとえばインターネットを通して、グローバルにシステマティックに整理していくようなオーガニゼーション(組織)が分散的にいくつかあって、それをビジネスマン、ビジネス・プランニングする人が自分たちの仕事に受け入れていく。またはビジネスの形態を模索する。提案する。そういうサイクルを築けるような社会の構造になるのではないか。

広瀬 : そう思いますね。その社会的機能というのを、客観的に捉えて影の部分に対してポジティブな提案によって、それを解決してゆく。あるいは新しい道筋を見つけだしてゆく。それが本来、技術の発展のサイクルだと思います。問題が提起されることが出発点。それはネガティブな行為ではなく、やはり事実を認識する客観的かつ冷静な判断の問題だと思うのです。情報化社会で多くの人がそれを共有できれば、新しい知恵が生まれて、技術の課題が解決されて、もうひとつ安定した技術に進化するという気がします。それがうまく組み込まれた社会というのは、これから必要なんじゃないか。特定の行政とか、政府がやるのではなくて、任意の組織、集団、個人が、自分の立場から発言できて、都合が悪いからネガティブだから消すとか、無視するというのではなくて、予想される社会現象のリアルな部分として認識して答えを求める。そういうことではないかと思いますね。

プロフィール

広瀬全孝氏の顔写真

  1. 【広瀬 全孝】

    1939年9月30日生まれ
    名古屋大学大学院工学研究科修了
    現在、広島大学工学部・教授
    専門は半導体工学
    1987年 「アモルファス半導体」の研究により、第1回IBM科学賞、受賞。

  2. 出身地 :

    岐阜県

  3. 職業 :

    広島大学工学部教授

  4. 家族 :

    妻、娘1人

  5. 趣味・関心 :

    絵画

  6. 好きな音楽 :

    クラシック

  7. 好きな言葉 :

    使命感

  8. 夢 :

    仕事を離れた自由な旅行・シリコン量子コンピューターの実現

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