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生命の水を子につなぐ -循環型社会実現への協働-

視察ツアー: 環境都市トップランナー 水俣市訪問ツアー

「水俣エコタウンプラン」(2000年)や「環境モデル都市宣言」(1992年)で知られる熊本県水俣市への視察ツアーは、シンポジウム翌日の10月18日に行なわれました。
今年(2006年)は水俣病公式確認から50年目にあたります。いまも続く犠牲者たちの苦しみと向き合いながら、環境再生に取り組んでいる水俣。水と太陽の恵みを生かした地域の産業と、循環型社会をリードする多くの先進事例には、「二度と同じ歴史を繰り返してはならない」という市民の切実な思いが込められています。
昨年の視察ツアーで訪れた豊島・直島(不法投棄事件の被害を乗り越えて環境に取り組む瀬戸内海の島)とも共通の意義をもつ水俣の経験から、地域の結束とイニシアティブの大切さがあらためて実感されました。ここでツアーのあらましをご紹介しましょう。

視察地


午前
車内で(沢畑 愛林館館長より講演)
水俣ECOタウン(田中商店の工場見学でビンのリユースとリサイクルを考える)
福田農場(資源をムダなく使った農産物加工品と観光施設の見学)

午後
水俣病資料館(資料館見学と語り部の講話)

ムダのない生産と消費のしくみで国際環境都市をめざす

車内

秋晴れの空の下、視察ツアーの一行はまず一路水俣へ向かいます。車内では、シンポジウム前日(10月16日)に森林保全体験プログラムを行なった「ふるさとセンター愛林館」の沢畑亨館長がビデオやスライドを使って、地元の棚田保全支援や森林保全活動、環境イベントなど、愛林館の取り組みを紹介しました。

車内


棚田づくりを通じた地域交流や、山林保全のための間伐作業について語る沢畑館長(バスの車内で)。


田中商店(エコボ<ecology-bottle>水俣)

最初の視察先は、水俣ECOタウンの田中商店。昭和のはじめから熊本市でびんの販売や回収を営んできた田中商店は、2001年に水俣エコタウンの事業としてガラスびんのリユースとリサイクルを始めました。
現在リユースの取り組みとして、リターナルびんだけでなくワンウェイ(使い捨て)びんについても洗浄して再使用してもらうシステムを南九州圏で確立し、事業展開しています(環境省 循環型社会形成実証事業「南九州における900ml茶びんの統一リユースシステムモデル事業」<図>)。水俣市では市民協働での分別収集が進んでいますが、分別だけではごみの発生抑制・減量にはつながりません。現在では南九州に限らず東京の居酒屋チェーンとも回収ルートをつくり、年間約350万本を洗浄し、その取り組みを全国に向け発信しています。
また、リサイクルの取り組みでは、使用済みのガラスびんを破砕してカレットにし、景観舗装材や軟弱地盤補強材、工芸品などに利用しています。

事業概要図

「南九州における900ml茶びんの統一リユースシステムモデル事業」の事業概要図。酒造メーカー、販売店、製びんメーカーとも、社会的責任が果たせる。消費者はびんを酒販店に戻すと5円で買い取ってもらえる。(出典:社団法人 環境生活文化機構のパンフレット)

洗浄工程
洗浄工程。苛性ソーダでラベルや異物
が取り除かれ、新品同様のガラスびん
に戻る。

抜栓機
注ぎ口に傷がつきやすいため、ガラス
びんはキャップをつけたまま回収される。
抜栓機はそのキャップを取り外す装置。

空びん検査ライン
空びん検査ライン。洗浄工程は自動化
されているが、傷や汚れのチェックは人
の目で入念に行われる。

説明を受ける参加者
リユースできないガラスびんは、破砕装
置でカレットにし、道路の舗装材などにリ
サイクルされる。工場の敷地に施した景
観舗装について田中専務(中央)から説
明を受ける参加者。

このほか、田中商店では牛乳パックを利用した水俣エコタウンのトイレットペーパーや、廃食油を使ったバイオディーゼル燃料(BDF)も生産しています。
「町づくりには若者、よそ者、わさ者(新しいことが好きな人)、馬鹿者(とことん貢献する人)が必要。これからもゴミを出さない事業に地域全体で取り組み、水俣を国際的な環境都市にして行きたい」と、田中商店専務で水俣エコタウン協議会会長の田中利和氏は笑顔で抱負を語りました。

福田農場

続いてバスは湯の児台地の坂道をのぼり、不知火海と天草の島々を見わたす「湯の児スペイン村 福田農場」に着きました。ここはスペイン風の洋館がそびえる美しい観光農園です。
熊本といえば、特産品として知られているのが甘夏みかん。31年前にみかん狩り農園を始めた福田農場では、その後レストラン、ぶどう狩りのできる果樹園へと経営を拡げ、現在では自家農場の甘夏みかんを原料にしたワインやジュースの製造販売に力を入れています。風光明媚な不知火(しらぬい)海を地中海に見立てて配置した「スペイン館」、「バレンシア館」、「セビリア館」では、地元の農産加工品や輸入雑貨を販売。スペインの国民酒にヒントを得たという「甘夏サングリア」の生産では、みかんの皮も捨てることなくサプリメントや入浴剤へと加工するなど、「もったいない」の精神を貫いています。
「甘夏みかんのオイルには、虫除けや育毛の効果もあります。昔の人はよくそれを利用していました。私たちは先人の知恵を生かしつつ、歴史観と多面的な視点から物事をとらえることが大切」と、福田農場ワイナリーの福田興次社長は自然の知恵と向き合うコツを教えてくれます。
昼食時にはバレンシア館のレストランで、参加者たちは地元の魚介類をふんだんに使ったパエリアを味わいました。この館では柱に古電柱、テーブルにワイン樽を使うなど、エコロジカルな発想による楽しい趣向が凝らされていました。
水俣に定着する人口を増やし、観光客と市民の交流を深める目的で、地域の新たな名所となりつつある福田農場。環境学習にもよく利用されているそうです。

福田農場のバレンシア館
福田農場のバレンシア館。不知火海の
海原の向こうには、かすかに天草の島
影が見えた。

福田興次社長
循環型のアイディアを農場
経営に生かす福田農場ワ
イナリーの福田興次社長。






ポスト
使用済みコピー用紙のリ
サイクルで作るエコハガキ
を集配するポスト。投函する
と、「ありがとう、送りまー
す!」と返事が聞こえてく
る。看板は地元高校生が
デザインしたもの。

風化させてはならない公害の歴史を伝える

水俣病資料館

視察ツアーの最終訪問地は、水俣市立水俣病資料館です。
1950年代前半、水俣湾の周辺で魚と動物に異変が生じ、1956年には人間にも同様の症状が発生していると公式に確認されました。それが水俣病です。初め原因不明とされた水俣病は、その後、チッソ水俣工場から工場廃水に混じって水俣湾へ排出されたメチル水銀(ビニールの原料になるアセトアルデヒドを作るときに生じる物質)によるものとわかり、患者とその家族は補償を求めて、原因企業であるチッソを訴えました。
第1次訴訟の判決(1973年)で患者側の訴えが認められたあとも、補償や水俣病患者の認定をめぐる争いは長く続きました。また、チッソ水俣工場の排水を止めなかった国や県に対しても訴えが起こされました。しかし、「裁判がこのまま長びけば、救済を受けられずに死んでいく人が多くなる」という判断から、関係者どうしの話し合いが進められるようになり、1995年に政府の解決策がまとまりました。1997年に最終確認された水俣病の救済対象者数は、生存者と死亡者を合わせて11,540人。そして2004年、国や県の責任も最高裁で認められ、現在はこの判決にもとづく救済策が検討されています。
水俣湾では、汚染された魚が湾外へ出て行かないように仕切り網が張られ、487万トンという大量の魚が処分されました。1997年に仕切り網は取りはらわれ、水俣湾は海底に蓄積した水銀を除去した後に埋め立てられました。埋立地は環境と健康をテーマにした公園「エコパーク水俣」となっています。しかし失われた湾と漁場は二度と戻ってきません。
視察ツアー参加者は、こうした水俣病の歴史がわかる資料を熱心に視聴していました。

水俣病資料館


海外からの訪問者を含め、年間5万人が訪れる水俣病資料館。パネルや大型スクリーンが水俣病の長い歴史を伝える。

語り部の講話

最後に一行は、水俣病の語り部である杉本栄子さんの講話を聞きました。
水俣病患者の方から直接お話を聞くことにより、人々の水俣病に対する認識を深める「語り部制度」ができたのは、1994(平成6)年のことです。1974年から水俣病と認定されていた杉本さんは、1995年に語り部となり、自らの経験を多くの人たちに伝えてきました。
この日、杉本さんはまずパネルを使って水俣病の背景を説明したあと、母親が隔離病棟に入れられた日から始まる壮絶な差別体験(水俣病は伝染性の奇病だと思われていた)と家族の苦悶、地域の人間関係にもたらされた悲劇など、歴史教科書では知りえない水俣病の真実について語りました。
耐えがたい差別を受けた日々にも、「水俣病はのさり(求めずして授かった大漁)と思え。人様を変えることはできないから、自分が変われ。人様を好きになれ」と教えたという亡き父の言葉に支えられ、杉本さんは水俣を離れることなく、この地の人々とともに生きてきました。当初は杉本さん一家を差別していた人たちも、同じ水俣病の苦しみを共有するようになったとき、心から「栄ちゃんにはすまないことをした」と家族に言い遺し、息を引き取ったそうです。
そうした体験を経て、いまでは「水俣が大好き。水俣の人たちが大好きです」と力強く言い切る杉本さん。参加者たちの多くは、涙を流しながらその言葉に聴き入っていました。

杉本栄子さんの話


水俣病の語り部、杉本栄子さんの話に耳を傾ける参加者。

杉本さん



苦悩の歴史を涙ながらに訴える杉本さん。「命ある限り水俣病のことを語り続けたい」という言葉に実感がこもる。


水俣病によって失われた地域の基盤や人々の絆を取り戻すことを、地元では「舫(もや)い」あるいは「舫い直し」と呼びます。これは船と船をつなぐ「舫い綱」にちなんだ言葉。筆舌に尽くせない50年間の苦しみを経て水俣がふたたび一体になり、風化させてはならない公害の歴史を環境再生への貴重な教訓にできたとき、水俣病問題は真の意味で解決するといわれています。
杉本さんの感動的な講話をしめくくりとして、2006年視察ツアーの全日程は終了しました。水俣の皆さん、本当にありがとうございました。

* 水俣病の語り部制度と語り部の方々については、水俣病資料館のホームページで紹介されています。