
量子化学で世界をリードする平尾研究室

工学系研究科
平尾公彦 教授
化学は、あらゆる産業と暮らしを支える広範な「物質」を取り扱う学問です。すべての物質は原子からできており、その性質は原子自身の状態や、原子同士の結びつき方(化学結合)で説明されます。原子・分子レベルでの物質の構造や性質を解明し、さらに、新しい物質や反応を構築することが化学全般の役割です。
従来は、実験によってそれらを解き明かす研究が主流でしたが、1990年代以降、コンピューターを用いてシミュレーションを行い、化学反応・分子機能の予測などを行う計算化学が急速に発展してきました。また、物質の化学的性質をより厳密に解明するためには、量子論に基づいたアプローチが必要になります。これを量子化学といい、原子と電子の振る舞いから分子構造や物性、反応性までを理論的に説明づける学問分野で、日本が世界をリードしています。量子化学は1981年ノーベル化学賞受賞の福井謙一博士の研究テーマとして広く知られるようになりましたが、福井博士のもとで研究を重ねてきたのが平尾公彦教授。東京大学の平尾研究室は、日本そして世界の最先端の量子化学研究を牽引する存在なのです。
サイエンスの未踏分野を開拓する計算化学
平尾教授は、量子論に基づいた計算化学の使命について、次のように語ります。
「計算化学は、化学現象の説明のみに終わることなく、進んで化学研究に対して方法論的に寄与すべきだと考えます。理論研究は、実験研究が難しかったり、観測にかからなかったりする問題にも容易に焦点を当てることができます。また、現象を量子論に基づいて統一的に解明することが可能です。残念ながら、これまでは理論計算に含まれる数学上の困難と、化学という学問が対象にする高次元の複雑性とによって、この要望をただちに満たすことは容易ではありませんでした。
しかし、時代はあきらかに変わりつつあります。分子理論や計算方法の目ざましい発展と、コンピューターの進歩により、10数年前とは比較にならないほど複雑な系の性質を、高い信頼度で予測することができるようになってきました。研究対象にできる現象や系は大きく拡がり、新たな可能性がひらかれつつあります」
量子論が生まれてから80年余りの歳月が経ちましたが、今日、コンピューター・シミュレーションによって、より多彩な研究が可能になってきています。「シミュレーションは、科学全般に大きなインパクトを与えつつあります。物質を扱う化学は、まさにサイエンスの未踏分野を切り拓こうとする、夢のある研究を行うことができるようになってきました」(平尾教授)
ナノやバイオのマテリアル研究をシミュレーションで加速
これまでは、すでに実験で確認されている現象を計算化学が理論的にシミュレーションして解釈したり、メカニズムを説明したりといった、いわば実験化学が先行し、それを理論化学、シミュレーションが後追いするという状況がありました。
シミュレーションによる計算化学の発展の成果として、今後は量子化学の理論が先行し、実験研究の可能性や方向性を示すことも可能になります。さらに理論研究が進めば、シミュレーションから新しい法則や現象を発見することが、計算化学の重要な役割となるはずであり、「ぜひそこまで発展させたい」と平尾教授は熱くビジョンを語ります。
「現在、科学研究において、ナノ・サイエンスやバイオ・サイエンスの領域が注目されています。化学、物理学、生物学にまたがる学際的な領域であるナノ・サイエンスは、実験が非常に難しいことが特徴です。だからこそ、ナノ分子集合体、ナノ構造マテリアルの研究に、コンピューター・シミュレーションが力を発揮します。また、ここで解明される事実は、健康な生活と高度な医療を支えるバイオ機能分子やバイオ・マテリアルの研究に活かされます。タンパク質などについての新たな知見が得られるなど、幅広い応用が期待される重要な分野です」(平尾教授)
いずれも、より複雑で大規模な系を取り扱うことになるため、シミュレーションのための計算時間も増大していきます。「系の大きさが2倍になると計算時間は8倍になり、系が10倍になると計算時間は1,000倍になってしまいます。従来、大規模な分子系を扱うことができなかった理由はここにあります。今日の量子化学においては、大規模な分子系を高精度に取り扱うことが最大の関心と言っても良いでしょう。コンピューター技術を有効に活かすだけでなく、大規模な分子系の計算に適した分子理論をあわせて展開していく必要があるのです」(平尾教授)
平尾研究室では、計算精度に重点を置き、実験値に劣らない精度の高い計算法や理論のプログラム開発を進めてきました。さらに現在、より大きな系を扱うために、系が倍になっても計算時間も倍で済む、といった理論とプログラムを開発しつつあります。日本の国家プロジェクトとして進められている、10ペタFLOPS級の次世代スーパーコンピューターが完成する2011年頃には、そのプログラムを使って新たなチャレンジをしていくことになります。
高精度な量子化学計算ソフトウェア「UTChem」のその先へ
コンピューター上で精度の高いシミュレーションを行うため、平尾研究室では専用の量子化学計算ソフトウェア「UTChem」を独自に開発し、2004年以降、ウェブ上で公開してきました(http://utchem.qcl.t.u-tokyo.ac.jp/)。「UTChem」は、分子積分の高速計算を特長としています。完成した海外のパッケージ・プログラムなどを導入するのではなく、ソフトウェアを研究室で開発することのメリットは、プログラム上の問題が見つかりやすく、また新たな分子理論をすぐに適用できるといったメリットが挙げられます。
http://utchem.qcl.t.u-tokyo.ac.jp/
平尾研究室のメンバーは、研究者と学生をあわせて総勢30名。一人ひとりがテーマを持ち、研究を行っています。ここで、研究室の皆さんの研究テーマをご紹介したいと思います。

中嶋隆人 准教授
まず中嶋隆人 准教授は、大きな分子系を扱っていく理論開発をテーマとしています。「分子が大きくなると、原子の数も増えシミュレーションに必要な計算量もそれに対応して増えていきます。ですから研究を進めるためにはコンピューターの計算能力が非常に重要です。現状でも100原子くらいまでは計算できますが、2010年頃までの目標として、UTChemとは異なる、時間変化を効率よく扱えるアルゴリズムを開発して、進歩を続けるコンピューターの力を借りながらもう2桁ほど対象とする系の原子数を上げていきたい。タンパク質などの1万原子系くらいのものが、時間の経過とともにどういうふうに動いていくかというダイナミクスを探りたいと考えています」
中嶋 准教授はさらに続けます。「それと並行して10年ほど前から、相対論的な分子理論の理論開発を行っています。普通の分子理論は、非相対論的な、量子力学のシュレーディンガー方程式という波動方程式を出発の方程式としています。しかし、周期表の下の方の重い元素を含むような分子系では、非相対論の波動方程式に基づいた分子理論は使えなくなる。そのかわりに、相対論的なディラック方程式を解く必要が出てくるのです。相対論効果は、重い原子を含む分子系で重要になってきます。相対論効果がないと金は金色に輝きません。他にも、水銀はどうして液体なのか。白金のような金属を含む分子は触媒作用を多く示すが、触媒作用が起きる理由は何か。こうしたことはいずれも、相対論効果で説明できるのです」

八木清 助教
八木清 助教は、「今はまず新しいプログラムを完成させることに集中しています」としながら、次のように語ってくれました。「興味を持っているのは、量子効果と言われる現象です。古典力学では説明されないような現象が量子力学では説明されます。たとえば原子の中で最小の水素原子による量子効果が生体のなかで重要な役割を果たしていると考えられます。それによって何らかの機能が生まれるのではないか、といったことを研究対象としています」

博士課程3年
佐藤健さん
大学院博士課程3年の佐藤健さんと倉重佑輝さんは、それぞれ次のようなテーマに取り組んでいます。「密度汎関数法(DFT)を用いて大きな分子を計算していこうとするときに、化学結合のような分子の中の強い結合は精度良く再現できますが、分子間の水素結合といった弱い結合を再現するのは難しいのが現状です。大きな分子の結合を高い精度で再現できるような計算方法を解明しようとしています」(佐藤さん)

博士課程3年
倉重佑輝さん
「ナノ領域の計算を可能にするような方法論およびプログラムの開発を行っています。将来的には、生体内の酵素反応などの系に対して、古典の方法を使うのではなく、すべて量子力学により正確に取り扱っていきたいと考えています。この研究テーマでは大規模な分子系を扱うため、ひとつの分子の波動関数の情報のファイル・サイズが数ギガにもなるなど、扱うデータ量も多くなりがちです。そのため私は研究室ではコンピューターのヘビー・ユーザーであるだけでなく、ハードディスク占有率もいつもトップです」(倉重さん)
高性能で信頼性の高いIBM System p5 550Qを駆使
メンバー全員がそれぞれに、数日から数週間かかるような計算を行っている平尾研究室においては、大きなコンピューター・パワーはもちろんですが信頼性も同じように要求されます。クオッド・コア POWER5+™プロセッサーがもたらす高性能に加え、高い安定性と信頼性が評価されて、最近IBM System p5™ 550Qが10台(40 CPU相当)導入されました。ハードディスク使用率が研究室でトップになることの多く大規模シミュレーションをされている倉重さんは、「メモリー・スペースを16ギガバイトも確保でき、大変うれしいです。大きな計算を安定して動かせるのは、IBM System p™ならではないかと思っています」と語ります。
大規模分子計算を行うためのコンピューター・パワーと、高速計算を可能にするソフトウェア「UTChem」を開発した平尾教授は今後、どのような展望をお持ちなのでしょうか。
「実験では想像もできないような未踏の領域を、シミュレーションによって開拓することが可能になってきました。今後も、理論的な方法論の開発と、コンピューター・パワーの両方をあわせて、さらに研究を深めていく必要があります。シミュレーションのおかげで、サイエンスはもう一度、夢とロマンを呼び起こすことができると思うし、平尾研究室では、ますますそういう研究を目指していきたいと考えています」(平尾教授)
ナショナルプロジェクトとして2011年の完成が予定されている次世代スーパーコンピューターについても、お話を伺いました。「10ペタFLOPSの性能を持ったスーパーコンピューターのハードウェアが完成したら、すぐに稼働させることができるように、いまからアプリケーション開発に力を注いでいくことが極めて重要です。また、国内でスーパーコンピューターを作ることができる力を保持しておくことも非常に重要です。これは自動車で言うとF1マシンの開発と同じで、スーパーコンピューターの開発で培われた技術が、身近な電化製品の開発などにも活かされるわけですから。いずれにしても、後世につながるような価値を作っていきたいと思います」(平尾教授)

平尾研究室の大規模分子計算を支える新鋭機IBM System p5 550Qをバックに八木 助教(左)と博士研究員の阿部穣里さん(右)。
お客様情報
東京大学大学院 工学系研究科 応用化学専攻 平尾研究室
定量的理論化学の成果を基礎に、電子状態理論や分子動力学を利用し、化学反応 をはじめとする種々の化学現象を微視的レベルで解明するとともに、その制御 理論を確立し、理論化学に先導された分子工学(分子設計、反応設計など)の新しい展開をめざしています。
理論化学は、量子力学のシュレーディンガー方程式やディラック方程式を出発点とし、その方程式にさまざまな近似概念を導入し理論体系を構築しています。平尾研究室では、主に以下の4つの領域において研究、開発を行っています。
- ab initio分子軌道法
- 密度汎関数法(DFT)
- 相対論的量子化学
- 計算機化学
[所在地]
〒113-8656 東京都文京区本郷7-3-1
本事例中に記載の肩書や数値、固有名詞等は初掲載当時(2007年4月5日)のものであり、閲覧される時点では、変更されている可能性があることをご了承ください。
事例は特定のお客様での事例であり、全てのお客様について同様の効果を実現することが可能なわけではありません。
IBM、IBMロゴ、POWER5+, System p、System p5は、IBM Corporationの商標。
他の会社名、製品名およびサービス名等はそれぞれ各社の商標。
