
高エネルギー物理学・加速器科学などの総合研究機構である「大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構」(以下、KEK)は、世界最高ビーム強度を誇る【電子・陽電子衝突型加速器(KEKB)】を稼働させるほか、スーパーコンピューターを使った素粒子・原子核物理学を中心とした高エネルギー物理学の理論的シミュレーションの研究を進めています。その研究内容を一層深めるため、2006年3月、IBM System Blue Gene® Solutionを導入。従来の計算機シミュレーションでは十分に解明できなかった領域に踏み入り、物質の生成の謎に挑んでいます。
KEKで活用されているIBM System Blue Gene Solution。
1ラックあたり1,024個の計算:ノード(計2,048個のCPUコア)を持ち、57.3テラFLOPSの理論ピーク演算性能を備える。トーラス型の高速ノード間通信を備え、大規模並列計算に適したアーキテクチャーになっている。
左から、KEKの松古助教、橋本准教授、Blue Geneの研究開発を担当するIBM基礎研究部門 システム担当のティラク・アガワラバイス・プレジデントとジョージ・チュウ博士。
素粒子物理学の新事実の解明には数値シミュレーションが不可欠
20世紀後半、素粒子物理学は大型加速器の進展とともに長足の進歩を遂げました。世界の最先端の動きとしては、日本の大強度陽子加速器施設(J-PARC)建設のほかにも、新しく稼働するCERN(欧州原子核研究機構:スイス・ジュネーヴ郊外にある世界最大規模の素粒子物理学の研究所)のLHC(Large Hadron Collider:世界最大の衝突型円型加速器)も、原子核の内部構造をさらに明らかにし、より精度の高い標準モデルの検証を可能にするものと期待されています。
しかし、素粒子の本質的な性質を知るうえで、実験だけでは「何が起こっているか」を知ることはできても、「なぜ起こっているのか」ということを理解するには限界があります。そこで実験アプローチとともに、素粒子のふるまいを記述した数学的モデルをコンピューター上に作り、その数値シミュレーションによって対象への理解を深める理論研究の努力が続けられています。
「私たちは、物質を構成する一番小さなものは何かを明らかにしようとしています。物質が何でできているのか、それがどのようにして物質となり、どのような性質を持っているのかを調べるのが基本的な目標です」とKEK素粒子原子核研究所 理論研究系の橋本省二 准教授。
物質はすべて、クォークとレプトンとよばれる素粒子からできていると考えられていますが、橋本准教授らが取り組んでいる「量子色力学(Quantum Chromodynamics:QCD)」は、宇宙に存在する4つの力(重力、電磁気力、強い力、弱い力)の1つである「強い力」に関する基礎理論の一部で、主にクォークのふるまいについての法則を表す理論です。
「私たちのグループでは、原子核の陽子や中性子を構成するクォークと呼ばれる素粒子の間に働く相互作用の研究をしています。互いに作用しながら動くクォークのふるまいは量子色力学の理論として確立していますが、クォーク間に働く力は強くて複雑なために、従来の計算方法では陽子や中性子の性質を量子色力学から直接導き出すことは困難でした。
陽子や中性子は3個のクォークからできていますが、クォークの質量を足しても陽子や中性子の質量の2%にしかなりません。残りの98%の質量は、クォークが真空中で生成と消滅を繰り返す粒子と反粒子にぶつかりながら進むことによって生み出されます。このような現象を実験で直接観測することは不可能で、数値シミュレーションでしか確認できないのです」
3つの色で物質の謎・宇宙の謎に迫る「格子QCD」
量子色力学は、光の3原色との類推からクォークに便宜的に「赤」「青」「緑」のカラーチャージ(色荷)で区別をつけてモデル化し、強い相互作用の源を探ろうというものです。量子色力学によると、カラーチャージ間の距離が小さくなると運動量が高まり、相互作用が弱くなります。逆に、距離が大きくなると相互作用が強まり、一定の力に近づいていきます。この様子は、高いエネルギーの素粒子散乱実験で検証されてはいるものの、クォークは閉じ込められており単体として取り出すことができず、現実には赤・青・緑の3原色を一様に混ぜた無色としてしか観測されません。そのため、どのように強力な加速器を用いてもその内部の状態を知ることはできません。
それを解決するために登場したのが、量子色力学の理論を4次元格子の上にのせて計算機でシミュレーションをするという「格子量子色力学(格子QCD)」の手法です。これは、時間・空間を格子に切ってその上に変数を置き、どう発展していくかを調べるものです。
図:格子QCDのイメージ
4次元時空を格子で区切って、その中に漂うクォークの様子をシミュレーションで調べる。

橋本省二 准教授・
理学博士
「限定した領域を格子に切って、その格子の物理量を格子内の一点での値で代表するのが格子QCDです。
もちろん、実際には格子で切り取った内部は一様ではなく複雑な構造になっているのかもしれません。格子を限りなく小さくしていかないと究極的に精密とは言えませんが、私たちが扱っている格子のレベルであれば、理論の本質的なところはまったく失われないということがわかっています。仮定を何も置かない、完全に自然界の基礎理論だけを基にした本当の意味の第一原理計算になっているのです。
ただし、格子QCDを解くには非常に速い計算機が必要です。既製のコンピューターでは能力が足りないため以前からQCD専用計算機を自作する研究者もいましたが、十分な結果は得られていませんでした」(橋本 准教授)
選定の基準はQCD計算が最も速いこと
KEKでもこれまで高エネルギー加速器科学の数値理論研究、特にクォークとグルーオン(クォーク間の力を媒介する糊のような粒子)に関するシミュレーションをコンピューターで行い、自然界の根底に潜む謎の解明に大きな成果を上げてきました。この研究活動をさらに発展させ、宇宙や物質の起源および構造を解き明かすには、大規模な数値シミュレーション能力が必要とされ、コンピューターの能力を格段に向上させる必要がありました。
このような背景のもと、それまで使用していたコンピューターのレンタル終了を機に新システムが検討された結果、IBM Blue Gene Solutionが導入されました。IBM Blue Gene Solutionは世界最速のIBM Blue Gene/L™ システムをベースとしており、10ラックで1システムを構築することにより57.3TF(テラFLOPS)の理論ピーク演算性能を提供します。
選定の基準になったのは、とにかく「QCDのシミュレーションを走らせるプラットフォームとして最もコストパフォーマンスが良い」ということです。加えて、Blue Geneは、低消費電力、省スペースなど優れた美点を持っています。
システム導入に際しては、2005年6月に日本IBM大和事業所に新設したディープコンピューティング開発研究所が、Blue Geneに対応した最適化チューニングなどの技術支援を行いました。同研究所では、ハードウェアの技術者だけでなく、ソフトウェア、先進技術、基礎研究、さらには産業別の専門知識を持つ技術者のスキルとノウハウを結集し、高度な計算能力のニーズに対応しています。
「当初、Blue Geneは商用と違って一般のユーザーと同じレベルのサポートをしてもらえないのではと不安がありましたが、そのようなことはまったくありませんでした。IBMのディープコンピューティング開発研究所の皆さんには機械語の命令を手でコーディングするところまでしていただくなど、非常にしっかりサポートしていただきました。それは、Blue Geneの性能を最後の0.1%まで余すことなく活用し、QCDプログラムの計算速度を最大限に向上させるためです。稼働してうれしかったのは、期待どおりの性能がそのまま普通に出たことです。またQCDシミュレーションの性能に重要な影響を与える隣接ノード間の通信速度がBlue Geneでは極端に速いという印象を持ちました」(橋本 准教授)
コンピューターの高速化がもたらした質の転換
2007年4月24日、IBM Blue Gene Solution導入の成果として「KEKが量子色力学におけるカイラル対称性の自発的破れを厳密に実証」というニュースが世界を駆け抜けました。
「カイラル対称性」とは光速で飛ぶ質量ゼロの粒子が持つ性質のことで、「カイラル対称性の自発的対称性の破れ」とは、真空中を埋めつくす粒子と反粒子にぶつかりながらクォークが進むとき、質量ゼロの粒子に質量が生成される現象をいいます。本来、質量を持たない粒子が質量を持つのは、クォークと反クォークが強く引き合い、互いに対になって真空に埋まってしまうためと考えられています。クォークが自分で自分に質量を与えることから、この現象は「自発的対称性の破れ」と呼ばれます。
クォークの相互作用を支配する量子色力学を解くことは非常に難しく、カイラル対称性の自発的破れの現象が起こる機構については、これまで理論的に解明されていませんでした。
橋本 准教授の研究チームがまず目指したのは、「格子QCD」という計算機シミュレーションによって、自発的カイラル対称性の破れの現象を世界で初めて「厳密に」実証することです。カイラル対称性を厳密に保つ理想的な格子理論の実行には、計算量が従来の100倍以上となるため、これまで試みることはできませんでした。
「このような状況を一変させたのがBlue Geneです。そして、その成果の第一歩となったのが量子色力学における自発的対称性の破れの厳密な実証だったのです」と橋本 准教授。最新のスーパーコンピューターと高速な計算アルゴリズムの改善により、初めてカイラル対称性の自発的破れの厳密な実証が可能になったのです。
「QCDのシミュレーションはこれまでにも何十年となされていますが、自然界が持っている対称性を保ったまま厳密なシミュレーションをするには計算能力が不足していました。それが、新しいマシンによって可能になりました。計算機が桁違いに速くなることによって、質の違いが備わったのです。これはBlue Geneがあったからこそのことです」
QCD計算に適したBlue Geneスーパーコンピューター
Blue Geneの基本アーキテクチャーは、もともと格子QCD専用機として構想されたQCDOCコンピューターに由来すると言われています。QCDOCは、QCD計算のために米コロンビア大学と米ブルックへブン国立研究所(BNL)/理研BNL研究センターがIBM基礎研究部門と共同で2002年から2005年にかけて開発したコンピューターです。
Blue Geneの設計アプローチは、専用機の利点を維持しながら、より広範囲なアプリケーションに適用可能な大規模並列システムを実現することでした。その目標は、低電力のPowerPC®プロセッサー・コアに科学技術計算用の大規模並列マシンの実現に必要な回路を付加する、SoC(System on Chip)のアプローチで達成されました。これにより、隣接する計算ノード同士で高速にデータを受け渡しながら、数万個ものプロセッサーが効率よく並列動作できるようになりました。
「QCDでは格子の上に置かれた変数が自分の隣にあるデータとやり取りしながら計算していくことが基本なので、隣のノードとのデータのやり取りが速いコンピューターであればあるほどQCDシミュレーションの性能は高いものになります。私たちがスーパーコンピューターに求める要件は、基本的には非常に高速なノード間相互通信です。近いノード間が速く通信できればよくて、遠いノード同士は関係ありません。自然界の基本方程式は近接相互作用といって、隣と順々に影響が及んでいきます。隣と情報をやり取りし、それを広げていくというように同じことを計算機で再現できればいい。個々のプロセッサーはそれほど強力でなくていいけれど、隣と速く通信できることが必要なのです。Blue Geneはそのような思想のもとにつくられています。目指すものが格子QCDと同じなのです」(橋本 准教授)
格子QCDとBlue Gene、それは最良の組み合わせとしてKEKにおいて花開いたといえます。
共同利用プログラムで国際貢献も
KEK計算科学センターの松古栄夫助教はBlue Gene が導入されてからの1年半余りを振り返り、次のように語ります。
「これまではどの理論も一長一短があって、ある部分では精度の高い計算ができても、他の部分がうまくいかないといったことの連続で苦労してきましたが、ようやく包括的に精度の高い計算ができるようになったという感じです。
Blue Geneの高い能力によって私たちの研究の足を引っ張っていた部分がクリアされ、そのうえ質的なジャンプがあったので、これからはBlue Geneを使用することで良い結果を出していけると思っています。将来また1桁速くなったらどんなことができるだろうかと考えると、これからがさらに楽しみです。
もう少し先には中間子1個の性質を調べるのではなく、中間子がたくさんあるものを超高温状態の中に置くとどうなるかとか、自然界では直接は観測できないことをシミュレーションするのも面白いのではないかと思っています」

松古栄夫 助教・
理学博士
Blue Gene は、KEKの加速器施設などと同様に、共同利用プログラムを通じて量子色力学や原子核構造理論などのシミュレーションに取り組んでいる全国の大学や研究所の研究者によって共同利用されます。KEKでは、シミュレーションで得られた膨大な計算資源から得られたデータを公開し、国際的に共有する動きをリードしており、世界の素粒子物理学の研究に貢献しようとしています。
「HEPnet-J/scという組織があり、KEKが中心的役割を果たしています。
QCDは基礎理論なので、誰がやっても同じ結果が出るはずです。世界中の人が同じやり方でシミュレーションするのであれば、データとして必要なものは誰かが計算すればそれでいい。その生データを世界中で互いにシェアする仕組みについて世界のグループが集まって議論し、互いにダウンロードできるようになりつつあります。たとえば真空のデータのように膨大な時間とお金をかけてつくったデータがKEKにあります。そうしたものは自分たちだけで抱え込むのではなく、誰もが使えるようにするということです」と橋本 准教授は語ります。

KEK 計算科学センター
地球上、あるいは宇宙空間にある実験装置では解明できない物質の謎が、スーパーコンピューターのシミュレーションの理論研究によって明かされようとしています。中でも格子QCDの手法は人間の手の届かない未知の領域に分け入る道を示しており、ビッグバンに始まる宇宙の起源を私たちが知る日もそう遠くはないかもしれません。
お客様情報
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
高エネルギー加速器研究機構(High Energy Accelerator Research Organization、略称KEK)は、粒子加速器を研究手段に用いて、宇宙・素粒子・原子核・物質・生命の謎を解き明かす加速器科学を推進し、国内外の研究者に研究の場を提供することを目的とする研究機構です。大学共同利用機関としての素粒子原子核研究所および物質構造科学研究所、ならびに加速器研究施設、共通基盤研究施設によって運営され、基礎物理学の発展に寄与しています。
[所在地]
〒305-0801茨城県つくば市大穂1-1
本事例中に記載の肩書や数値、固有名詞等は初掲載当時(2007年10月現在)のものであり、閲覧される時点では、変更されている可能性があることをご了承ください。
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